三中 信弘 (農環研,東京大院農学生命科学)
森中 定治 (日本生物地理学会)
久保田 信 (京都大フィールド科学研究センター・瀬戸臨海実験所)
金子 邦彦 (東大総合文化・複雑系生命システム研究センター)
長野 敬 (自治医科大名誉教授)
もともと定義できないものを定義しようとする動機はさまざまである. 長年にわたって「種問題(the species problem)」の論争で鍛えられてきた進化学者や体系学者たちは, ある”もの”を定義しようとする行為がもつ魅力と魔力を十分すぎるほど叩き込まれてきた. 生物多様性の「単位」として「種(species)」を定義しようとすることは, ヒトの持つ認知心理的な背景を考えるならば当然あり得ることだろう. およそ自然界に存在するものは離散的な「類」すなわち「自然種(natural kind)」に分割できるとみなす 「自然種のドクトリン」(Lakoff 1987),およびそれぞれの自然種には「本質(essence)」 が存在するにちがいないという「心理的本質主義」(Kornblith 1993)は,このような自然的実体に関する形而上学 (すなわち存在のあり方に関する)の議論を支え続けてきた内的動機づけだった. これほど錯綜した「種」に関する論争よりもこみいっているのが「生命(life)」に関する論議だと私は考える. その理由は,われわれの想像力の限界が試されているからにほかならない(Wilson 1999). 「種」や「生命」は時空的に変化しつつ存続するある実態に関する概念である. 個別(particular)から普遍(universal)への一般論を目論むとき,時空を超えて「種」や「生命」の ”何”が存続するのかを議論しないわけにいかないだろう. 近年の生物哲学での議論を概観すると,何らかの弱い意味での「方法論的本質主義」 を復活させる試みが注目される(Koslicki 2008).ところが,方法論的本質主義は進化的思考に抵触するリスクを負う. 今回のシンポジウムの各演者がどのような立場から普遍と個別の「生命」に関する概念を提示するのか, それらを踏まえて,生命に関する論議をどこまで深められるのか興味深く見守りたい.